「聖書に聴く」会は、各自が聖書を中心に据えて、参加者各自が感じたことを意見交換しながら進行していく、双方向型の形式で進めています。

いわゆる「聖書研究会」ではありません

日本のプロテスタント系キリスト教の教会では聖書研究会があります。これは宗教改革者のルターの「聖書のみ」という、それまでのカトリック教会の教義・伝統にプロテスト(抗議)してできたことに由来しますが、実際にはそれぞれの時代の必要に応じて様々な教派を生み出しました。聖書に依拠した結果ともいえます。なぜなら聖書は色々な、そしてしばしば真反対な主張をしているからです。

したがって、ルターは「聖書のみ」と言っただけではなく、「信仰のみ」とも言っています。これは聖書、それも新約聖書のごく一部の主張なのです。しかも、この「信仰のみ」という場合にも、カルヴァンは人間の救いに対する神の約束にあくまでも忠実であることと解し、ルターのいう人間の神への信頼心とは違うのです。

「聖書研究」なるものは「集会」を教える会、学ぶ会と解した日本のプロテスタント教会の独特のもので、他の国では同種のものはなく、内容は他宗教や他教派と自分たちとを分ける「固めの会」だと言えます。

その逆に、もしこれがないと「聖書信仰」は、単に聖書の字面をそのまま「事実」とする「原理主義」になってしまいます。そこで「聖書」なるものに関わり合いたいなら、教会の「固めの会」ではない聖書研究が必要となります。

「聖書に聴く」にはどうしたらよいのか

聖書は古典文学の一つです。古典文学は時代や社会状況を超えて魅力あるものです。勝手に自分の思いを持ち込んで読むことに誰も文句は言えません。けれども少しもったいないとも言えます。

新約聖書は、書いた主体も書かれた状況も異なる30近い文書が後の教会によって「聖典」として時間をかけて編纂されたものです。論文や教義や思想なら普遍的に妥当性を追えばよいわけですし、そうした文書もないことはないのですが、特に聖典として読まれる場合はそうした観点から読まれてきたわけです。しかし、それぞれの文書が書かれた事情を知ったほうがより理解が深まると思います。

新約聖書の前半部は歴史物語であり、後半部は手紙です。歴史は単なる史実の記述ではなく、ある集団の自己理解の反映です。後半は主として実用の手紙でした。したがって手紙を書く事情、書き手と受け手の関係や、そこで起こっている問題を知っていたほうがよいわけです。

ともかく、ローマ帝国が支配していた地中海世界に、天動説を前提にした三層の世界観を共有していたヘレニズム時代のユダヤ人社会は二千年前のものです。そして、各文書は変化しつつあるそれぞれの社会関係の中で成立したものです。そうした背景を知ることから、よりよく聖書に聴くことができると考えます。

小田原勉強会 【休会中】

■日時: 第3土曜日 午後2時から2時間程度 ■場所: 髙橋先生宅 ■会費: 1000円 ■内容: 「聖書に聴く」