以下に、イエスとパウロの関係(共通点と相違点)を要約的に述べます。
(これは、パウロとパウロ後の関係を牧会書簡の律法論を手掛りに論じた「パウロ伝承の文学・社会学的検討」『聖書学 論集17』日本聖書学研究所編、山本書店、1982年、122-153頁の一部によっています。パウロの社会学的分析については、132頁以下を参照してください。以下は、系2 「イエスとパウロ」140頁以下と重複することをおことわりしておきます。)
イエスの活動は、ヘロデ大王下の、いわゆる「平和期」に比較的開放的性格の強かったガリラヤ地方において、主としてなされました。このような時代状況とイエスの自由な振舞いは対応しています。このイエス の自由は、パレスチナのユダヤ人社会内部における周縁状況へと突き抜けるものであり、そこで社会秩序を乱す反体制者として制裁されたのです。しか し、このイエスの自由は周縁状況への突き抜けと体制批判と いう葛藤理論的側面と同時に、周縁人との共なる飲食や、そこでの共なる生にこそ神の直接支配を見るという、新しい共同 体を形成していく統合理論的側面をも合わせ持っています。
もちろ ん、この両側面ともイエスの意図であったわけではなく、その機能と解されるべきです。この脱出と形成を内臓するイエスの自由は、パレスチナのユダヤ人社会内部に封じ込められず、その周縁人とも言えるヘレニストの信憑構造に合致 し、ステパノの例で明らかなように、パレスチナのユダヤ人社会との間に軋轢を引き起こし、それから脱出させる力となりました。さらにこのヘレニストを介して、ディアスポラのユダヤ人社会へとこの運動は拡大していったのです。
他方、パウロの活動の時代状況は、第一次ユダヤ戦争へと向かう、国粋主義的傾向を強めていった「中間期」に属し、帝国とパレスチナの関係が色濃く影を落とすシリアが、その初期の活動領域でありました。しかし、彼はそのアンテオケでディアスポラのユダヤ人社会並びにそこに寄生するユダヤ人キリスト者たちと衝突します。これは、彼の「律法からの自由」に起因します。この律法に対する自由な態度は、彼らがなおかつユダヤ人社会内部にとどまりうるか否か、という深刻な選択の前にキリスト者を立たせたと思われます。
アンテオケにおけるペテロ、さらにバルナバとのパウロの訣別は、主観的・意識的には神学問題でしたが、社会学的には、キリスト者のユダヤ人社会からの分離独立という、キリスト教史上決定的に重要な分岐点となりました。ユダヤ人社会からの脱出を意図しなかったにもかかわらず、彼の律法からの自由は、そこからの脱出を引き起こします。
しかしこの脱出へと向かわせる葛藤理論的側面と同時に、タイセンの指摘する統合理論的側面も確かに存在します。彼は、ヘレニズム世界の市民倫理、教会形成とその秩序維持のための勧告、エルサレム教団や原始教会の教義に対する忠誠を語ります。終末に至るまでの短い期間ではあっても、彼は、キリスト者が日常生活を続けていくことを 大切なことと考えます。この意味でパウロは、日常性から完全に脱出することの中に救済の実現を見るコリントの教会の熱狂主義的「完成者」と一線を画すると共に、教会の教義と職制の中に救いを見出す、パウロ後の初期カトリシズムとも一線を画しているのです。
以上のように見てくると、イエスとパウ口における共通点 と相違点が明らかになると思われます。相違点は両者の活動の状況の相違に起因しています。両者に共通しているのは、葛藤 と統合を緊張のうちに合わせ持つという点です。この緊張の力が信憑構造間の移住を可能にするのです。
イエスは、 パレスチナのユダヤ人社会の周縁人に信憑構造間の移住を可能にし、彼らに生きる場を与えました。これに対してパウロは、ユダヤ人社会からの脱出とヘレニズム世界内に普遍教会を形成するという、キリスト教史上最大の分岐点に決定的影響を与えました。イエスがパレスチナで果たした機能を、パウロはヘ レニズム世界で果たしたのです。それと同時に、イエスのダイナミズムがパレスチナ・シリアの教会に封じ込められたように、パウロのそれは初期カトリシズムに封じ込められたのです。しかし、パウロが彼以前の教会からイエスのダイナミズムを解き放ち、自ら展開したように、「正統的」教会からパウロのダイナミズムを解き放ち、自ら展開する責任が 後の教会に課せられているのです。