神学教育における聖書学の役割
聖書学が「学」としてなぜ必要なのか
日本の教会のかなり長く続いてきた良い伝統の一つに、講解説教と、週間にもたれる聖書研究・祈祷会があります。信徒も説教や聖書研究を担当することがありえますが、それらは主として牧師の仕事。従って、牧師の養成機関である神学校のカリキュラムには、信仰訓練や教会の伝統的教義、あるいは牧会技術の習得もありますが、聖書の勉強は必修科目なのです。
しかし「聖書の勉強」という時、聖書は「信仰と生活との誤りなき規範」として信仰の対象であって、「学」としての聖書学は補助的な意味しかない、という意見もあります。事実、教会と神学校(大学神学部)との落差は常に存在してきたし、信仰・伝統的教義・教会技術習得の一つとして聖書の勉強がなされている神学校もあります。
信仰者としては信徒も牧師も同じです。一つのライセンスが牧師を牧師にするわけではありません。ただ、信徒は自分の信仰を生き、自分の救済体験を信仰の証として語ることで十分なのに対して、牧師たる者は、自分の信仰体験に根差しつつも、様々な人生体験や信仰体験を持つ人々を理解し、受け入れ、教導することが期待されており、そのためには自己相対化と信仰の、より客観的理解が必要です。従って、神学校で「学」として聖書を学ぶ必然性はここにあるというべきなのです。
神学校に行ったことのある人ならば、ほぼ共通して自分の信仰体験や召命の確信が根底から崩される体験をします。たしかにそれはもっとも広い意味での信仰訓練と言えるとしても、それまでの自分の否定、挫折して混沌に戻るといった方が実感に近いものです。神学校生活という非生産的とも思われるこうした一時を、伝道の戦線に立とうと決意した貴重なスタート時に過ごさなければならないことはつらいことですが、だからといって、神学校を省略して早く資格を取る道を選ぶことを勧めることはできません。神学校の存在の意味の一つでもあるからです。神学教育、とりわけ聖書学が信仰を強化できないことはその失敗ではなく、必然なのです。
神学は「反省の学」
そもそも神学は、生な信仰ではなく「学」なのです。「学」とは、常に相対的であることを自覚し、理性に従って批判的に判断することです。信仰は「学」に従うことはあり得ませんが、「学」も初発的には何ものからも自由なので、神学はそのような意味で反省の学なのです。従って、それがいかに体系的・組織的な論理構造をもとうと、教会の全営みに対する後からの反省であり、それが反省である故に次の営みへの指針ともなる、といったものなのです。それは反省でありますから、教会の営みの丸呑みではあり得ません。そこには最善と思ってやってきた教会の判断・行為が神と人の前に誤り得るという認識が前提されているのです。
神の前に人の営みは、それがどんなに真実たろうとしつつも、完全ではありえません。それゆえ、また人に対してなされた神の導きと信じた願いや行為も、神に対してと同様、的外れであり得るし、的外れであるために人を傷つけ、疎外する可能性から自由ではありえません。神学は自己絶対化ではなく、自己客観化をもたらします。
神学の課題と聖書学
神の働きは、神学や神学者を通してではなく、この世界の様々な出来事、信仰者の生きる姿、教会の歩みを通して、鮮明に、或いは逆光的に、あるいは遮蔽的に、語られています。神学はそれを反省的に、教会のこれまでの「知識」(これは知識社会学の用語として、空気のように意識せずに前提している考え方という意味で用いている)に照らし合わせつつ整理しています。整理しつつそれを次の教会の歩みの指針として提示しています。
教会のこれまでの知識の中には、その教会・教派の伝統的教説や宣言、歴史・物語、そして聖書の「読み」が含まれています。この教会の知識は、その時代その時代の複合物であるので、神の言葉に忠実であろうとすればするほど、その時代の、必要、課題、願望と深く関わっています。神の言葉は人間の歴史に深く具体的に語られたし、語られているからです。それゆえそれは時代と共にあるゆえに、時代と共に変化します。神学はその変化を通して変わらざる神の言葉を聞き取ろうとしています。これが神学の課題です。
聖書学は、この神学の反省的側面を徹底しています。聖書学は教会の学、神学の批判的作業を担っています。これは「普遍主義教会(ecclesia catholica)」に対して反抗した「抗議派教会(sola scriptura)」が「聖書のみ」を標榜したときから神学の中心的課題にならざるを得なくなりました
とりわけ聖書が思想レベルで多様な発言を蔵していることから、「信仰のみ(sola fidei)」といった「聖書聖典の中の基準(Kanonim Kanon)」をめぐって論争と分裂を繰り返して来ました。プロテスタントのドイツ語「福音主義教会(Die evangelische Kirche)」は教団状況の中で別様の意味をもって用いられていますが、それは、ことの正誤はともかく、このような事情によるのです。