聖書は「生きた宗教の言語活動」の記録

さて、「学」として新約聖書を学ぶという表現自体、同語反復的であります。しかし最近、聖書に書かれている、ということをそのまま現実に適用することによって人間の疎外状況を固定化したり拡大したりしてしまう事態が起こり、大きな戸惑いを与えています。従って、わざわざそのように言わなければならない状況が存在するのです。

聖書の文言を文字通りそのまま「神の霊感による」ものとして現実の諸状況に上からかぶせて、教会のこれまでの知識を是としようとする、あるいは戸惑うという自体を招来しているのは、聖書の学問的理解の不足によるのです。私も聖書が神の霊感によってなったと信じていますが、逐語霊感説は採りません。もっとも厳密な 意味で逐語霊感説を採っている牧師は少ないです。ただ、明確な自覚なしに、ということは、教会的知識や現代人の知識によって取捨選択しているだけなのです。そこで聖書を前にして議論してもお互いの前提が違うから噛みあわないということが起こってきます。当然の 結果です。

聖書は、ボアズの言葉に>よれば、「生きた宗教の言語活動」の記録であって、論理的整合性を求めて打ち立てられた普遍的妥当性を持った思想体系などではない。とすれば、聖書学は、聖書のそれぞれの文書が書かれた前提的知識をまず自覚的に 明らかにするために、紀元 1、2世紀の地中海世界の知識を得ようと努めることから始めなければなりません。それは、言語、思想状況、世界様式、諸宗教、社会構造、聖書諸文書を生み出したグループとその歴史などから再構成されます。

イエスの出来事もパウロの言語活動もこうした知識を前提に語られ、伝えられ、受け取られたのであり、さらにこれらの言語活動は>少しずつずらされ、削られ、付加され、差し替えられしつつ、さらに新しい言語活動として展開されていき、蒐集・編纂され、その化石化とも言える仕方で我々の前に聖書として存在しています。普遍教会はその聖書をも乗り越えて組織的・制度的に確立していきますが、それに抗議して聖書に再度戻ることを主張した流れに現在の我々は立っています。

聖書学は批判学

聖書学はすでに確認したように批判学です。それはまず、テキストに向けられます。テキスト批判は単に本文批評にとどまりません。聖書テキストそのものを、なぜそうなのか、と問うのでなければなりません。現実に存在する諸々の問題からテキストそのものを問わなければなりません。

それは一見聖書信仰に反するかのようであります。しかし我々は生きて働いておらる神を信じるが故に、日々迫り来る諸々の課題に押されて、我々に先行する神の言葉であるテキストに向かうのです。聖書テキストは課題を自動的に解くアンチョコではありません。

聖書学は、第二に、教会批判となります。批判は 非難や否定ではなく、その逆であります。「聖書のみ」は教会の営みにつきまとう贅肉や装飾、独善と横暴をこそげ取ります。その意味で「学」としての聖書学は最も良く、反省の学である神学の主要な一部なのです。

聖書学は、第三に、社会・宗教批判となります。聖書テキストは歴史上の出来事を指し示します。イエスの出来事は、人間を抑圧し差別する社会構造を支える宗教に対する闘いであり、パウロの言語活動は狭量な民族主義や伝統保持に対する否であります。宗教は、社会から自らを浮かすことによっても補完することによっても、その社会構造と深く関係します。宗教は、その構成員の自己同一性を確保すると同時に、その閉塞状況を突破し、解放させる力をも持ちます。聖書学はその統合と葛藤の両側面の教会の営みを伝えています。しかし当然、聖書学は歴史的・批評的方法によってその解放的側面をより鮮明に指し示してくれます。教会は単に社会のキリスト教化や宗教であることに自己存在の意味を見出すのでない限り、つねに社会・宗教批判的存在なのです。