聖書のダイナミズムに学ぶ(1)
宗教改革者は「聖書のみ」と主張して、教会の権威に立ち向 かいました。
この「聖書」はもちろん正典としてのそれであっ て、教会の地下室に仕舞い込まれていた宝物を、埃を払って 持ち出してきたような新鮮さを人々に与えはしましたが、それは あくまでも普遍教会が編集し、権威づけた—具体的には、 「古ローマ信条」の線に沿って、使徒的権威のあるものとし て正統的教会が認めた—- 統一ある書物でした。
したがっ て、「聖書のみ」はその内容として「信仰のみ」を合わせ持 っていたのです。つまり、正典の中の正典として、聖書の中心的使信が信仰告白として主張され、聖書はその信仰告白に従って 正しく読まれるという、正典的性格そのものは温存されてい たのです。
このことは、その後のプロテスタント教会の教派論争に 際して、聖書が常に自分たちの信条の正しさを証明する典拠として読まれてきたことを意味します。今日の大方の「聖書 研究」や説教のための釈義においても、この教派的伝統による「読み」はいささかも変わっていないかのようであります。 近代的聖書学の歴史的批評的研究は、このような宗教改革 の遺産とも言うべき、聖書に対する教義の優位性に対する批 判として成立したことは良く知られているところであります。
し かし、教会はこの批判をも自らの枠内に取り込むことによっ て、総体としての批判ではなしに、部分的修正や弁証に用いようとしてきました。そこには信条教会、信仰告白を中心にした 教会の必然性が看取されます。
聖書は、歴史的・社会的諸状況と深く関わりながら、そこ からそこへと語られた文学から成っています。歴史的であると いうことは、特別に理念化され、神の民や教会とだけ結びつ けられた「救済史」に限定されません。それは、世界史そのも のであるゆえに、その時々の社会的状況と、否定的に対峙す るか積極的に参与するかは別にして、無関係ではありえな いのです。このことは、イスラエルおよび教会の歴史が疑問の余地 なく明らかに示していることであります。
しかし、聖書を、種々 のイラストレーションをもった永遠の真理、歴史を越え、社 会の諸状況に左右されない、普遍妥当的な神の言葉であると 解されてきたことも事実であります。このような前提があるかぎ り、聖書を歴史的(批評的)に読む場合にも、事情はほとん ど変わりません。ただ、様式史や、その徹底化とも言える文学 社会学を認容することはできません。イエスの出来事や教会を 相対化し、無力化してしまうと心配するからであります。
確か に、聖書諸文書を社会状況との関わりで読むことは、それを 相対化することではありますが、相対化と無力化とは直接結びつ かないのです。むしろ絶対化へと固執することこそが、硬直した無 力化をもたらすのです。
聖書諸文書が状況的であるということは、今日の社会状況 の変化の中で、聖書の読まれ方が多様化するということによ って支持されていると言えましょう。社会の分化は、それを支え てきた世界観の分化として表われます。教会の分裂や新教派の 発生は、社会的変動に対応し、福音理解の分化は、社会的変 動下の教会の状況理解に対応しています。その意味で、教団や世界 の教会の今日的状況も十六世紀の宗教改革もその例外ではな いのです。